坂口安吾の評論
根っこのところがコレクター気質なので、たいてい本は新品を購入して、本棚に並べて満足している。
そのため、買うときは本屋に行って物色しているわけであるが、本屋には流行作家の売れ筋が平積みされていても、著作権の切れたような半分歴史上の人物の本はごく少なく、目立たないところに並べられている。
三島由紀夫や小林秀雄・坂口安吾も、その知名度のわりに本屋での占有率には恵まれていないようだ。*1
そんな坂口安吾だが、高校の倫理のテストに『堕落論』が出たと友人から聞いたので、読んでみようと思い立ち本屋に行ったが、全集を買うのはためらわれた。*2
しかたなく青空文庫で読んでみたが、便利。
スマホで読むのに最初は抵抗があったが、暗いところで読めるし、風呂にも持ち込める。なんといっても無料なのが良い。
個人的に安吾の作品では随筆・評論が好みだ。
「世の中に対して、勝てないと感じながらも立ち向かい、歴史に参加しようとすること。そして、その行動は特別なものではなく、日々を必死に生きることでなされる。」
といったことが伝わってきて、とても勇気づけられる。
歴史への参加を説いたサルトルの哲学にも共通するところがあるが、安吾のほうがより大乗的だ。我々の生活こそが歴史であり、生きていることが戦っていることであると述べているのだから。
生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
『不良少年とキリスト』
太宰治の自殺についてだが、「安易な生活または死を選ばずに、(絶対に勝てない、真理も理もあるはずのない)世界に立ち向かえ」という点はサルトルとよく似ている。
しかし安吾は『二合五勺に関する愛国的考察』で、少ない配給に文句は言っても世の中を否定しない人々や自分に感動を覚え、三合の米しか食べられないために棄教したキリシタンと比較して、自分たちの歴史的行為に自信を持つように励ましている。
三合の空腹に神を売った何百人かも、もし食物に困らなければ、拷問に死んで殉教者となったかも知れぬ。しかし、われわれが、現に二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国をうらぎっておらぬことだけはまちがいがない。つまりわれわれは過去の歴史が物語るもっとも異常、壮烈な殉教者よりも、さらにはなはだしく、異常にして壮烈な歴史的人間であった。
~中略~
私は本来世に稀れなぐうたらもので、のんだくれで、だらしがないから、切支丹の殉教の気魄などには大いに怖れをなして、わが身のつたなさを嘆いていたのであったが、この戦争によって、にわかに容易ならぬ自信をえた。それは要するに、例の二合一勺と切支丹の三合に瞠目した結果にほかならぬのだが、私といえども、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかったカイビャク以来の歴史的愛国者であることを自覚したからであった。
~中略~
されば今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今日諸嬢諸氏の現身がいかほどぐうたらでだらしなくとも、断々乎として、自信、自愛せられんことを。げに人間はぐうたらであり、偉大であります。
『二合五勺に関する愛国的考察』
当時の人々が高尚なことを考えて我慢していたわけではないだろう。
むしろ社会通念や尊王思想から我慢したとしたら、安吾は失望したかもしれない。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
~中略~
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
『堕落論』
戦争中にあった規制道徳を取り払えば、残るのは混乱と不道徳だろう。
ただしその不道徳は自分として生きるという目的のもので、堕落とはいうが、正しいものなのだ。
一方で安吾は、人は「堕ちきる」ほどには強くもないと述べている。ここにもやはり勝てない世界というものを見ている。
けれども、その勝てない世界に自分自身の堕ちきる道を探さなくてはいけない。
虚飾を捨てて人間本来として生きなくてはいけない。
そうあってこそ、生きることで歴史参画が行われるのだろう。
坂口安吾の評論は、あたたかいが厳しい。