鬼平犯科帳
ドラマ化され、果てはアニメ化までされていて、アマゾンプライムで見ることができる。*1
代表作だけあって、冊数も多く、秀作も多い。
文庫版で24冊。24冊目は作者が死去したため未完となっている。
池波正太郎のライフワークになっていたため、長期にわたって執筆されており、そのためかつじつまの合わない部分があったりする。*2
それでもやはり面白い。
火付盗賊改の長官である長谷川平蔵が優れたリーダーシップを発揮しながら、江戸の町を荒らしまわる盗賊たちとやりあう。
大まかな内容はそれだけなのだが
平蔵の盗賊・密偵・部下・市井の人々に対する情味あふれるやり取りは、見たこともない江戸時代の江戸の町に対する憧憬をかきたてる。
優れた作家は言葉を作ると言われるが、鬼平犯科帳にも
「3か条*3」「急ぎばたらき*4」「流れ盗め*5」などの盗賊用語や
「相模の彦十」「大滝の五郎蔵」「小房の粂八」などの二つ名も登場しており、作中への没入感を大きくする。
また、一刀流の達者である平蔵は、残虐な盗賊には容赦をせず、その手で成敗することもあるが、やむに已まれぬ事情で盗みを働いたものには温情を見せて、見逃してやることもある。
このあたりの「情」「義理」といった描写は、舞台が江戸時代の時代小説だからこそ、リアリティーを持って感じられる。
おすすめは平蔵やほかの登場人物のキャラクターが固まってきたあたりから
長編が続く前くらいだ。
文庫でいえば6巻から21巻くらいまでだろう。
酒は日本酒を燗にして。肴は千切りこんにゃくの煮しめなど。
以下に気に入っている部分を引用する。
「だが……こうして富田が息絶えてしまったからには。そもそもの原因を知ることができぬやも知れぬな。捕まえるか、または峰打ちにとおもったが、さすがに富田達五郎だ。手かげんをするゆとりが、おれにもなかったわ」
と平蔵が沢田小平次にいい、
「伊三次。どこかの駕籠屋を起こして来てくれ」
「どうなさるのでございます?」
「富田の亡骸を運んでやるのよ。それが、せめてもの、おれの志だ」
「へい。では、すぐに……」
町は、寝静まっている。
煙管屋・紀伊国屋も、このさわぎには、すこしも気づかなかったろう。
「人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない。何かの拍子で、小さな悪事を起こしてしまい、それを世間の目にふれさせぬため、また、つぎの悪事をする。そして、これを隠そうとして、さらに大きな悪の道へ踏み込んで行くものなのだ。おそらく、富田達五郎もそうだったのであろう」
長谷川平蔵の声に、茂兵衛は何度も何度も、うなずきながら泪ぐんでいた。
『鬼平犯科帳13 殺しの波紋』
ひまわりの祝祭
ハードボイルドとミステリーの違いがよくわかってない。
ハードボイルドミステリーって、そのジャンルの中に細分化されて存在しているのだろうか?
であるならば、順序によって大まかなジャンルを表しているのかな?
順序を変えると人面魚と魚人くらい違いそうだが。
むむ…そうなると人魚姫のポジションは一体…?
ますますよくわからなくなってきたので、ここはひとまずミステリー⊂ハードボイルド*1
ということにしておこう。
さて、ミステリー⊂ハードボイルドな『ひまわりの祝祭』だけれども
藤原伊織のハードボイルド小説は、何度読んでもたまらない面白さがある。
本来、ミステリーは一度読んだら、その結末が裏切られていればいるほど記憶に残り
読み返すことはないのだが、この作者は違う。
結末はわかっていても読み返してしまうのだ。
内容はゴッホの「ひまわり」をめぐるミステリーに
数年前に自殺した主人公、秋山の妻がかかわっていて…といった内容。
一応、ミステリーなのでこれ以上は内容を述べないが
一度読んでみて損はない作品である。
しかし、何度も読み返したくなる魅力はミステリー小説の部分よりも、ハードボイルド小説の部分だろう。
なんといっても会話の軽妙さが魅力だ。
考えてみると、ハードボイルド小説は会話の重要性からみて
マンガ・アニメ・youtube世代と相性が良いのかもしれない。
活字離れを危惧するお偉方は、本を読めと垂れ流すだけではなく
学校教科書に面白いハードボイルド小説を載せてみてはどうだろうか。『山月記』のあとに『新宿鮫』が載っていたら、次にはカフカの『変身』を載せたい。
虎になって、鮫になって、虫になって、次には一体何になるんだ…?
ってワクワクしそうだ。
酒はウイスキー、肴は『テロリストのパラソル』にちなんでホットドックで。
以下に気に入った部分を引用する。
「君の話した遺書の内容を知っているのはだれとだれなんだ」
「いま現在、仁科、私、あなた、あとひとりいます。家捜しは彼の指示でしょう」
「あとひとりって、だれなんだい」
「あなたは協力を断られた。これ以上、お話しする義務があるでしょうか」
「ないだろうね」
「ずいぶん、あっさりしてらっしゃいますね」
「気分がラクになったからだよ」
彼は僕を見ながら首をふった。何度もふった。
「あなたが無神論者だとは知らなかった。きわめてめずらしい例というしかない」
「無神論者?」
「そう。現在にあって神の座にのぼっているのは、なにか。この点はご存知でしょうか」
「知らない」
「カネです。それ以外ない唯一神です。その神をあなたは信じてはいないように見受けられる」
「そりゃ申しわけなかった」
*1:⊂は抱合記号。A⊂BならBの中にAが含まれるという意味。犬⊂動物とか電車⊂乗り物って感じの記号。高校数学では部分集合って習うはず。
坂口安吾の評論
根っこのところがコレクター気質なので、たいてい本は新品を購入して、本棚に並べて満足している。
そのため、買うときは本屋に行って物色しているわけであるが、本屋には流行作家の売れ筋が平積みされていても、著作権の切れたような半分歴史上の人物の本はごく少なく、目立たないところに並べられている。
三島由紀夫や小林秀雄・坂口安吾も、その知名度のわりに本屋での占有率には恵まれていないようだ。*1
そんな坂口安吾だが、高校の倫理のテストに『堕落論』が出たと友人から聞いたので、読んでみようと思い立ち本屋に行ったが、全集を買うのはためらわれた。*2
しかたなく青空文庫で読んでみたが、便利。
スマホで読むのに最初は抵抗があったが、暗いところで読めるし、風呂にも持ち込める。なんといっても無料なのが良い。
個人的に安吾の作品では随筆・評論が好みだ。
「世の中に対して、勝てないと感じながらも立ち向かい、歴史に参加しようとすること。そして、その行動は特別なものではなく、日々を必死に生きることでなされる。」
といったことが伝わってきて、とても勇気づけられる。
歴史への参加を説いたサルトルの哲学にも共通するところがあるが、安吾のほうがより大乗的だ。我々の生活こそが歴史であり、生きていることが戦っていることであると述べているのだから。
生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
『不良少年とキリスト』
太宰治の自殺についてだが、「安易な生活または死を選ばずに、(絶対に勝てない、真理も理もあるはずのない)世界に立ち向かえ」という点はサルトルとよく似ている。
しかし安吾は『二合五勺に関する愛国的考察』で、少ない配給に文句は言っても世の中を否定しない人々や自分に感動を覚え、三合の米しか食べられないために棄教したキリシタンと比較して、自分たちの歴史的行為に自信を持つように励ましている。
三合の空腹に神を売った何百人かも、もし食物に困らなければ、拷問に死んで殉教者となったかも知れぬ。しかし、われわれが、現に二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国をうらぎっておらぬことだけはまちがいがない。つまりわれわれは過去の歴史が物語るもっとも異常、壮烈な殉教者よりも、さらにはなはだしく、異常にして壮烈な歴史的人間であった。
~中略~
私は本来世に稀れなぐうたらもので、のんだくれで、だらしがないから、切支丹の殉教の気魄などには大いに怖れをなして、わが身のつたなさを嘆いていたのであったが、この戦争によって、にわかに容易ならぬ自信をえた。それは要するに、例の二合一勺と切支丹の三合に瞠目した結果にほかならぬのだが、私といえども、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかったカイビャク以来の歴史的愛国者であることを自覚したからであった。
~中略~
されば今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今日諸嬢諸氏の現身がいかほどぐうたらでだらしなくとも、断々乎として、自信、自愛せられんことを。げに人間はぐうたらであり、偉大であります。
『二合五勺に関する愛国的考察』
当時の人々が高尚なことを考えて我慢していたわけではないだろう。
むしろ社会通念や尊王思想から我慢したとしたら、安吾は失望したかもしれない。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
~中略~
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
『堕落論』
戦争中にあった規制道徳を取り払えば、残るのは混乱と不道徳だろう。
ただしその不道徳は自分として生きるという目的のもので、堕落とはいうが、正しいものなのだ。
一方で安吾は、人は「堕ちきる」ほどには強くもないと述べている。ここにもやはり勝てない世界というものを見ている。
けれども、その勝てない世界に自分自身の堕ちきる道を探さなくてはいけない。
虚飾を捨てて人間本来として生きなくてはいけない。
そうあってこそ、生きることで歴史参画が行われるのだろう。
坂口安吾の評論は、あたたかいが厳しい。
一九八四年
ジョージ・オーウェル、高校生は知っているかもしれない名前だ。
なぜなら、現在高校1年生が使っているコミュニケーション英語の教科書であるelementに名前が出てくるからだ。とはいえ、科学技術の進歩とその扱いに関しての文章だったので、彼の作品については言及されていない。残念。
さて、私はSFを読むことも多いのだが、一番のお気に入りはフィリップ・K・ディック。特に好きなのは「高い城の男」と「ユービック」だ。
感情移入して読み進めていくと認知があいまいになっていく感覚がたまらない。
それはそうと「一九八四年」だが、正直最初はあまり期待していなかった。
ディストピアもののSFが好みではなかったということもある。*1
しかし読んでみると、さすがは20世紀最高峰のディストピアもの、読後感が悪く、最高に面白かった。
ネタバレを避けるため、詳しくあらすじは述べないが、「ビックブラザー」率いる党の全体主義的近未来には「テレスコープ」「Room101」「Doublethink」「Newspeak」など、全体主義を彩る要素が満載だ。
その中でも「Doublethink」「Newspeak」は興味深かった。
簡単に言うと「Doublethink」は相反する事象に矛盾を感じなくさせることであり、「Newspeak」は語彙を減少させることで複雑な思考をさせなくすることである。
私たちは今のところは全体主義国家には属しておらず、強制的に「Doublethink」しろとは言われていないのだが、SNSなどをで情報をあまりに多く受け取り、取り入れることで、それを反芻することなく、自己を確立できていないのではないだろうか。
そうして自身の考えに対する一貫性を失っていないか。
矛盾を矛盾として認識できていないのではないか。
「Newspeak」だが、ソシュールの記号論を思い浮かべた。
「我々は言語を用いて世界を認識している」というのが乱暴な説明だ。
つまり語彙の減少は世界の減少と言える。
例えばゲームをしない人は、PS5もニンテンドースイッチもセガサターンもPCエンジンも区別がつかないかもしれない。その人は「ゲームの世界」が認識できないといえる。
私たちは氾濫する情報を扱いきれず、自分の世界だけの言葉を集めて世界を狭くしているのではないか。
…小難しいことを書いたが「一九八四年」は何度も読み返したくなる本であった。
酒は安いジンで、肴は特になし。
以下に気に入った部分を引用する。
「誰かほかの人に、って口走っている時は、本気でそう言っているのよ」と彼女は言った。
彼も本気でそう言った。それを口にしただけではなく、心底それを願ったのだ。心底願っていた、自分ではなく彼女をそこに……
(中略)
彼はその情景を頭から締め出した。それは偽りの記憶なのだ。彼は時折、偽の記憶に悩まされた。その記憶の正体がわかっている限りは、別に問題はない。実際に起こったこともあれば、起こらなかったこともある。
*1:なら「チグリスとユーフラテス」が好きなのはどう説明するんだ?という話になるが。本当は好きなのかもしれない。
19歳 一家四人惨殺犯の告白
最近は小説だけではなく、ノンフィクションもよく手にするようになった。
大量のニュースに埋もれてよくわからないままになっている様々な事件に今更ながら興味がわいてきたのかもしれない。
と、偉そうなことを言うが実のところは旅行中、バスや電車での移動時間に読む本として駅の近くの書店で購入したものだ。*1
1992年*2、千葉県市川市で一家四人が19歳の少年によって惨殺される事件が起こった。犯行に至るまでの生い立ちから事件までの行動と死刑確定までを、面会と書簡を通じて明らかにしようとする。事件の詳しい内容はWikipediaで。
私が犯人に対して感じたのは、『ただ今しかない』という感じで生きているな、ということだった。母子家庭で苦労した少年時も、フィリピンパブの女性と結婚した時も、その場の快・不快で物事を判断しており、過去がどのように今に影響を及ぼしているか、これからどのようになるかを考えていない。
裁判を受けて収監されている最中でさえも、事件があくまでも過去のものとして認識されている。
自分の感情で最も近いのは他人とけんかをしてカッとなっている時だろうか。ずっとこんな気持ちで生きていたら、さぞかし生きづらかったと思う。もちろん犯人のことは理解できないけれど、私だっていつ怒りに身を任せてしまうか分かったものではない。そんな時にこの本のことを思い出せればいいなぁ。
コーヒーでも飲みながら落ち着いて読みたい。
以下に気に入った部分を引用する。
「みっともないんです」
ーみっともない?
「そうです。みっともないんです」
ーだれに対してみっともないんだろう。
「いや、だれに対して、というわけではありません」
ーでは、ああいう事件を引き起こした自分が、人間としてみっともない、ということですか。
「いや、そうじゃありません。ただ、みっともないと……」
ーそうすると、みっともないことした自分を直視するのがイヤだということになる。みっともない自分を正面からとらえないで、反省しても仕方ないと思います。
この後、ほんの一瞬だが、ガラス板の向こうの光彦の顔に怒気が浮かんだ。顔面がスッと白く染まる。初めて見せる、感情の発露だった。唇を歪めて語る。
「そんな、隠しておきたい自分を見つめて、何の意味があるんですかねぇ」
(中略)
「なかったことにして欲しいんです」
ーなかったこと……
「ええ、チャラというか、すべてがなかったことになればいいのに、と思います。関光彦は、この世にいなかった、ということになれば一番いい。早くこの世から消えていなくなりたいんです。これ以上、生きていても仕方ありません。早く済ませてほしいんです」
ーあなたの存在そのものをゼロにしたいのですか。
「そうです」
日本人の戦争 ~作家の日記を読む~
比較的歴史は好きなほうだ。
とはいえ、近代史や現代史はあまり好きではなく、最も好きなのは中世史である。いずれは細川重男の「執権」や、小説ではベタだが吉川英治の「私本太平記」「新平家物語」なども備忘録に加えたいものだ。*1
ドナルド・キーンといえば日本文学研究家として有名であり、日本文学に関連する外国人では小泉八雲*2と双璧をなす有名人ではないだろうか。
最近テレビで三島由紀夫の特集をしていた時にキーンのコメントに興味を持ち、この本を購入したはずだ。
永井荷風、高見順、山田風太郎などの日記を引用しつつ、知識人たちの愛国心や反軍思想、現実に対する諦め、尊王思想などを驚きまたは、共感を持ってまとめている。特にキーンと同じ時代に生き、同じ本を読んでいた山田風太郎の強い愛国心と好戦的な態度には驚きの度合いが強い。
とはいえ、私にとって最も印象深かったのは、戦時下という非日常な状況で人々は淡々と日常を生きていたことであった。
2020年現在、世界的に伝染病が広がり、人々はSNSという形で日々を記録している。その内容もまた淡々とした日常生活なのだろう。
だんだんと人々は政府の発表を信じなくなり、マスコミの発表も話半分、広がるうわさ話に一喜一憂する点でも、現在とリンクしており、今読んでおいてよかったと感じた。
酒は紫蘇焼酎、肴は煮しめで。
以下に気に入った部分を引用する。
高見も山田も、今や二つの同盟国を失った日本が、孤立したまま全世界を相手に戦うことになった事実には何も触れていない。しかし、高見はボルネオの戦闘についての新聞記事を読み五月十一日の日記に書いている。
敵に明らかに押されているのだ。敗けているのだ。何故それが率直に書けないのだ。何故、率直に書いて、国民に訴えることができないのだ。
今でも、いつも、こうだった。だから国民は、こういう気休めの、ごまかしの記事にだまされはしない。裏を読むことになれさせられた。すると、何の必要があって、こういう記事でなければならないのだ。
*1:好きな本ほど好きな場面が多くて引用部分が決めきれない。いつか加えられたらいいなぁ。
*2:本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン 。代表作に「怪談」
奪われざるもの
また久々に再開。*1
仕事を始めたら、目の前のことにかまけて全く更新していなかった。
飽き性の健忘症。
まぁ、こんなもんだと思いながら、気が向いたので再開しよう。
今回は小説ではなくノンフィクション。一時期、話題となった「ソニー追い出し部屋」がテーマ。
ソニーという一流企業に入社し、有能であるにもかかわらずリストラ対象となった人々の苦悩と戦いがつづられている。
リストラ対象の社員たちが「誇り」「生活」「仕事への愛着」「愛社精神」などによって、リストラに憤慨したり諦観したりしているのは、1人のサラリーマンとして身につまされる内容である。
翻って自分の身に同様のことが起こったらどうであろうか。私の勤めている会社は零細もいいところで、同様の仕事をしているところはいくらでもある。条件の良いところは星の数ほどある。
それでも今の会社を辞めたいと思わないのは、これまで自分がここで創りあげてきたきたものに誇りを持っているからなのだろう。
逆に会社がこの誇りをないがしろにすることがあれば、いつ辞めても再起は可能だと感じさせてくれた。
以下に気に入った部分を引用する。
多くの社員は「トップは赤字でも多額の報酬をもらっているし、カネはもらわなければ損だ」と考える。
そうした空気の中で、吉松は「お金を積まれて辞めるわけではないから」と考えた。
(中略)
会社が危機に陥った時、律義に社内秩序を守ろうとしたのは皮肉なことに女性たちだった。
「ソニーってもっと奇麗な会社だったよ。甘ちゃんでやんちゃな社員が多いけど、潔癖な人ばかりだったのに・・・」
と居酒屋で男たちをしかりつけた女性がいる。「もう腐ったソニーは見たくない」と言って辞めた人もいたという。化粧の奥に固い心の核を隠していたのだ。
*1:実に5年ぶりか…。