酒と本

健忘症の備忘録

栄花物語

山本周五郎は昭和を代表する文豪といえる。

代表作は大河ドラマにもなった「樅の木は残った」や小石川養生所を題材とした「赤ひげ診療譚」。こちらは黒沢明が監督で「赤ひげ」という名で映画化されている。

 

さて「栄花物語」であるが、「赤ひげ診療譚」などと比べて題材となっている人物が人気があるとはいえない人物である。

田沼意次。賄賂政治で有名な中学校の教科書にも登場する江戸中期の政治家である。「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌は聞いたことがあるだろう。

現在では再評価され、商業資本の台頭に、いち早く対応した進歩的な政治家であったともいわれている。しかし、「栄花物語」が書かれた昭和28年当時では新しい視点であったことは想像に難くない。

 

田沼政治が終焉を迎える時期、主人公として描かれているのは、信二郎・保之助の二人。

信二郎は皮肉屋で才気あふれる若者だが、反骨に過ぎるきらいがあり、田沼政治を批判する戯曲を書いている。

保之助はまじめで一本気、四千石の旗本に婿入りをすることになる。田沼意次には世間の風評から良い感情がなく、政権打倒を手伝うことになるのだが、後に田沼意次に魅かれていく。

二人は親友であるのだが、その子という女性に振り回される保之助と、真の意味でその子の魅力を理解している信二郎との対比が面白い。

 

信二郎と保之助に関わる人物たちも掘り下げられており、田沼政治の明と暗を様々な人物が体現している群像劇といえる。

信二郎はその才能から暮らすことには困らず、芸術家らしく世間体も気にしない。しかし、婿に入った保之助はそうはいかない。世間で暮らす保之助は内心では田沼政治を評価しながらも、反田沼の機運が高まる状況下で苦悩する。

そして、二人は田沼から松平定信への権力の移り変わりとともに、悲劇的な結末を迎えることになる。

 

我々は為政者に対して、ある種の超人性を求める傾向にある。

滅私奉公。為政者は自己もなく、全てを費やし、社会に尽くして当たり前である、社会に暮らす万人を幸せにする必要があるという認識。

それが幻想であることを知っていないはずがないのだが、「100人のうち99人を救う医者は優れている」といっても、「100人のうち99人が満たされているので、彼は優れた政治家だ」などとは誰も言わない。1人でも満たされていない人物がいる限り、為政者の個としての能力を認めることはない。満たされない人物がいる限り、その為政者は悪なのである。

 

しかし、山本周五郎信二郎に「人間が自分から好んですることに罪はないんだ、自分がそうしたくてすることは、その人間にとってはすべてが善なんだ。反対に望みもしないことを望むようにみせたり、自分で信じていないことを信じているようによそおうことこそ、罪であり悪というんだ」と述べさせて『万人を満たさない為政者は悪、自分の意思で権力を握り続ける者は悪』という価値観をバッサリと切り捨てている。

 

滅私奉公の認識が為政者に必要かどうかは私には判断できない。

政治権力の暴走を防ぐという側面は確かにあるだろう。

しかし選挙という形で政治に参画できる現在において、政治家の能力をオールオアナッシングで測ることも危険であろう。

選挙権の年齢が引き下げられ、政治への門戸がより開かれた現在において、必読の一冊といってもよいだろう。

酒はぬる燗で日本酒を、肴は板わさというところか。

 

以下に気に入った部分を引用する。

「人間の軀はなまみだ、軀は生きている、なまみの軀から逃げ出すことはできやしない、――軀が生きているということを、認める勇気のあるものだけが、人間らしく生きることができるんだ」

「おさだは勇ましい」などとも云った、「その公も勇ましい、だがおはまは鼻につく、いつまでも変わらない愛情なんて、鰻の蒲焼をぶっ続けに食うようなものだ、――ぶち毀せ、信二郎、こんな出来上がった状態の中に、ぬくぬく寝ころんでいようというのか、きさますっかり愚物になったぞ」